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「もし、怪我さえなければ」才能と苦悩の狭間でサッカーを愛した男たちを振り返る(前編)

怪我は、才能ある選手の未来を一瞬で変えてしまう。小野伸二、宮市亮、小倉隆史──日本サッカー界には「もしも」で語られる天才たちがいる。それでも彼らは、サッカーを諦めなかった。何度も倒れ、もがき、苦しみながら、それでもピッチに立ち続けた。挫折と希望の狭間で戦い続けた彼らの時間を振り返っていく。※トップ画像出典/Pixabay

Icon arata illust2 眞木 優 | 2025/04/11

静岡が生んだ天才プレーヤー、小野伸二

小野伸二は1979年9月27日生まれ、静岡県沼津市出身の元日本代表ミッドフィルダー。Jリーグや欧州リーグで活躍した“天才”と称される存在だ。

幼少期から卓越した技術と広い視野でサッカー界を驚かせてきた。1998年、高校卒業後に浦和レッズでプロデビューを果たし、同年18歳の若さで日本代表にも選出。フランスで開催されたW杯にも出場した。予選グループ第3戦のジャマイカ戦では途中出場。サイドからのパスを受け、相手の股下を通すドリブルから放ったシュートはゴールとはならなかったものの、その一連のプレーは世界に「小野伸二」の名を印象づけるには十分だった。見る者を驚かせる柔らかなボールタッチと、試合中に見せる想像を超えた発想力で、小野は「未来の日本の司令塔」として大きな期待を集めていた。しかし、1999年7月。シドニーオリンピック出場をかけたアジア予選で悪夢が訪れる。相手選手の悪質ともいえるタックルを受け、小野は左膝前十字靭帯断裂という重傷を負い、長期離脱を余儀なくされる。復帰後も膝の感覚は戻らず、以前のようなプレーは徐々に影を潜めていった。

その後、オランダのフェイエノールトへ移籍。日本人として初のUEFAカップ制覇を果たすなど、彼のクリエイティブなプレーは依然として高く評価される。それでも、あの怪我さえなければ…と思わずにはいられないほど、怪我前と比べて彼のプレースタイルは変化していた。もし1999年の大怪我がなければ、彼はきっと見る者をより驚かせるような、世界での活躍を見せていたに違いない。

不屈の精神力を持つスピードスター、宮市亮

宮市亮は1992年12月14日生まれ、愛知県名古屋市出身のスピードスター選手だ。中京大中京高校時代には、ずば抜けたスピードで左サイドを駆け抜け、全国大会で活躍。 卒業後には、イングランドの名門クラブ・アーセナルと契約し、日本中のサッカーファンを驚かせた。その驚異的なスピードに注目が集まり、日本の新たなストライカーとして将来を有望視されていたが、不運にも度重なる怪我に悩まされることになる。

宮市が海外挑戦を始めた2011年11月、リザーブリーグの試合中に左足首を捻挫。この小さな怪我を皮切りに、右足首靭帯損傷や左ハムストリング損傷など、次々と怪我に見舞われてしまう。なかでも選手生命に大きな影響を与えたのが、2015年7月の左膝前十字靭帯断裂と、2017年6月の右膝前十字靭帯断裂という立て続けの大怪我だった。これらの怪我によって、宮市は長期離脱とリハビリを繰り返すことになり、その間にある医師からは引退を勧められたこともあったという。それでもサッカーへの情熱が彼の心を何度も支え、2021年には横浜F・マリノスに加入。2022年には約10年ぶりに日本代表に復帰するという驚異的な精神力を見せた。

ところが、サッカーの神様はまたしても彼に大きな試練を与える。5度目の大怪我。さすがに5度の靭帯への怪我は厳しく、選手生命の限界を心配する声も上がった。それでも彼は諦めず、何度でも自分の居場所であるピッチに戻ってきた。不屈の精神とサッカーへの情熱は、多くのファンや選手たちの心を動かしたに違いない。怪我予防のために走り方を改良し、以前よりもスピードが増した宮市をいったい誰が止められるだろうか。宮市亮のサッカー人生は才能だけでなく、逆境に立ち向かう強い意志と不屈の精神の大切さを、私たちに教えてくれている。

異次元のレフティーモンスター、小倉隆史

1990年代、日本サッカー界には「レフティーモンスター」と呼ばれた天才がいた。サッカーファンであれば、小倉隆史という男の名を聞いたことがあるのではないだろうか。小倉は1973年7月6日生まれ、三重県鈴鹿市出身の元日本代表フォワード。左足一本でゴールをこじ開ける得点感覚と豪快さを兼ね備えたプレースタイルは見る者を虜にした。注目を集めたのは、四日市中央工業高校時代。当時から規格外のストライカーとして知られ、高校サッカー界では「敵なし」ともいえる存在だった。高校卒業後は名古屋グランパス(当時:名古屋グランパスエイト)に加入し、18歳という若さで即戦力として頭角を現す。その後、オランダのエクセルシオールに留学。31試合で14ゴールという成績を残し、強烈なインパクトを与えた。帰国後の1994年には、日本代表デビューを果たし、わずか数試合で結果を出すと日本代表のエース候補として一躍脚光を浴びた。1995年の天皇杯では、ピクシーことドラガン・ストイコビッチとの“黄金コンビ”でチームを初優勝に導き、明るい未来が期待されていた。しかし、その矢先に悲劇が起こる。

1996年、アトランタオリンピックを目指すチーム合宿中に右膝前十字靱帯を断裂。選手生命を脅かす重傷だった。不運はさらに続く。日本で行った手術は失敗に終わり、オランダで再手術を受けることになったのだ。 長期離脱を余儀なくされ、小倉がアトランタ五輪のピッチに立つことは叶わなかった。以降も「レフティーモンスター」の影は徐々に薄れ、プレースタイルも激変。 怪我からの回復後もプレーを続けたが、かつてのような豪快なプレーは影を潜め、引退まで苦しみ続けた。しかし小倉は最後までもがき続け、致命的ともいえる怪我さえも受け入れ、決して悲劇のヒーローを気取らなかった。それが、小倉隆史という男の生き様そのものなのだろう。