【選手ヒストリー】捕手と投手、ムードメーカーとしてもチームに貢献ー岡田雅利(埼玉西武ライオンズ)活躍の軌跡/2024年プロ野球引退選手
岡田雅利は強豪校・大阪桐蔭高校に進学。当時の監督の勧めで就職した大阪ガスで社会人野球を経て、2012年ドラフト6位で埼玉西武ライオンズに入団した捕手。捕手ながら、持ち前の強肩と3本塁勝負強い打撃を武器に2018年はリーグ制覇に貢献した選手。ムードメーカーとして精神面でもチームを支えた※イラスト/これ松えむ
奈良県奈良市出身の岡田は、野球をやっていた兄の影響で小学校1年生の頃にバイオレッツ都祁に入部すると、そこから捕手に。都祁中学時代に在籍していた桜井リトルシニアでは主将を任され、日本選手権の関西予選では首位打者を獲得。全国大会出場を果たした。
中田翔と同チームでプレーするために強豪・大阪桐蔭高校へ
中学卒業後は、世代別日本代表のエースとして4番を務めた中田翔と「同じチームでプレーしたい」との思いから、強豪校の大阪桐蔭高校への進学を決断。
高校2年生で迎えた2006年に捕手のレギュラーを掴むと、夏の甲子園出場を懸けて大阪大会予選に挑んだ。順調にトーナメントを勝ち上がった大阪桐蔭は、決勝戦で金光大阪と対戦。延長戦の末に4対3で勝利を収め本大会への出場を決めたが、夏の甲子園では横浜高校に勝利した後の2回戦で斎藤佑樹投手率いる早稲田実業高校に敗れ、大会を後にした。
3年生春の選抜大会(2007年)では、投手の中田翔とバッテリーを組みベスト8に進出を果たすも、1番遊撃手に1学年下の浅村栄斗らを擁した夏大会では、前年は勝利した金光大阪の前に決勝で屈し、本大会出場を成し遂げることはできなかった。
社会人野球時代の都市対抗野球で活躍し、ドラフト指名を獲得
大阪桐蔭高校を卒業した岡田は、西谷浩一監督の勧めによって社会人の大阪ガスに入団した。
6番指名打者で起用された2年目の2009年には都市対抗野球と日本選手権出場を成し遂げると、8番指名打者で出場した2010年の日本選手権では、初戦の日本通運戦で後に西武でチームメイトとなる牧田和久から本塁打を放つなど3安打の活躍を見せた。
5年目の2012年に正捕手を獲得した岡田は、6年目の都市対抗にスタメン出場を果たし、持ち前の強肩と勝負強い打撃を披露したが、初戦で東芝の前に延長の末に敗退。ドラフト後の日本選手権もJR東日本に屈し、社会人での6年間を終えた。
출처/Getty Images
プロ2年目には初本塁打も!投手でも活躍。ムードメーカーとしても重宝される
高校の後輩で同じポジションの森友哉が1位で指名された2013年のドラフト6巡目で埼玉西武ライオンズに入団した岡田は、ルーキーイヤーの2014年は1軍戦に22試合に出場し、初安打と初打点もマーク。2015年にはプロ初本塁打も放った。
炭谷銀仁朗との併用で起用された2016年には開幕から一軍に帯同し、47試合に出場。キャリア最多の66試合に出場した2017年はプロ入り初の猛打賞や、チーム3位の12犠打を記録するなど、バットでも魅せた。その後も森や炭谷との併用が続いたが、ベンチにいる時も熊代聖人とともにムードメーカーとしてチームを鼓舞し、存在感を示した。
チームのリーグ制覇貢献するも…
3本塁打を放った2018年は、勝利を手繰り寄せる効果的な活躍を放って、リーグ制覇に貢献。オフの右膝手術を経て臨んだ2019年も36試合に出場して連覇を成し遂げたが、8月に負傷し、左親指と左足を手術することに。なお、この年のオフにFA宣言し、チームへの残留を決断。背番号をそれまでの37から2に変更して2020年シーズンに臨むこととなった。
だが、コロナ禍で6月の開幕となった2020年は、シーズンを通して1軍に帯同したものの、わずか29試合の出場、打率.107と不本意な成績に。2021年も打率.119と低調に終わると、以降は自身の怪我や柘植世那や古賀悠斗ら若手選手の台頭、そして2024年に炭谷銀仁朗がチームに復帰したことを受けて徐々に出場機会を減らし、2024年限りでの引退を決断した。
プロフィール
名前:岡田雅利(おかだ・まさとし)
出身:奈良県
生年月日:1989年6月30日(35歳)
身長/体重:173cm/80kg
投打:右投げ右打ち
ポジション:捕手
ドラフト年:2013年ドラフト6位
経歴:大阪桐蔭高(甲)-大阪ガス-埼玉西武ライオンズ
通算成績
実働10年:326試合(打率.219/119安打/2本塁打/40打点/0盗塁)
※記事内の情報は配信時点の情報です(2024年11月現在)